彼は、『こんな所、もう居たくない』と思った。何も不自由はしていない。食事の時間には豪華な料理が大きなテーブルいっぱいに並ぶ。でも彼はこんな生活は嫌だった。来る日も来る日も勉強ばかり。広い邸の外には出させてもらえない。後継ぎだからという期待が彼に重くのしかかる。きっと自由な恋を許してはもらえないだろう。自由を一番恋しく思うこの15歳の時期に貴族の生活は耐えられなかった。
他にも理由はある。1ヶ月ほど前、彼の父親をよく思わない人達に使用人の一人が射殺された。彼の父親をかばったのだった。彼はそんなシビアな世界に足を踏み入れざるを得ない自分の将来に嫌気がさしたのだった。
だから彼は、邸を出ることにした。裏の人工林を抜けて路地裏を抜けると、市場はすぐそこだ。小遣いはもらっているが使った経験はほとんどなかった。彼は庶民の食事はこんなんなんだ〜とか、大人達の間を縫って追いかけっこをしている子供達をいいな〜とか思いながら大通りをぶらぶらしていた。
彼は油断していた。もっとも、彼が油断していないときというのはすぐにバレそうな悪戯をしかけたときぐらいだ。それほど彼の生活に危機感はないのだった。
そんな油断した彼の横を同じくらいの年齢の少年が走り抜けていった。
「いたっ!何すんだよ!」と、彼は言ってみたものの、もう見えなくなったその黒髪の少年に聞こえているはずがなかった。
「まったく。失礼な奴。ぶつかったなら謝れよ」
彼はそう呟いた。自分は謝ったことがないくせによく謝れと言えたものだ。
彼はその後も何事もなかったように歩いていた。
4時も過ぎ、陽が傾き始めているのが少し分かるようになってきた頃、彼は林檎が食べたくなっていた。
「俺は買い物だって出来るんだ。」
彼は独り言を得意げにつぶやくと、近くの八百屋に立ち寄って、「林檎を一つ下さい」と言ってポケットに手を突っ込んだ。
一瞬の沈黙。
「…あ…。財布がない」
「ゴルァ!!この泥棒がァ」
「わわわわ、うわー!」
林檎を放り投げ、彼は逃げ出した。こういうときこそ謝るべきだとは思わないのか。
逃げ惑う彼。路地という路地をさ迷い、彼は別の大通りへ出てきてしまった。誰かが人探しをしているらしい。彼はその似顔絵を見た。
「…俺の顔…?!」
驚いて振り返ると、後ろの人と目が合った。後ろの人は、彼の顔と似顔絵をまだ見比べている。
「うわああああ!」
彼は後ろの人が確認し終わらないうちに走り出した。また、どこか見知らぬ路地に逃げ込んだのである。
彼は今度は路地の真ん中で立ち止まった。
「つ…疲れた」彼は邪魔にならなさそうなところによけてからへたへたと座りこんだ。…と同時に盛大に腹の虫が鳴った。
「お腹の中でファンファーレ…」
こんなにもお腹が空いたことがなかった彼はすでに朦朧としていた。
足音が近づいてくる。彼はそんな事はどうでもよかった。結局邸に連れ戻されて、こっぴどく叱られようと何しようと、ご馳走が待っているのだから。
不意に、目の前にパンが差し出された。
「ほら。食えよ」
顔をあげると、バサバサの長めの黒髪でぼろを着た、薄汚い少年が笑っていた。彼はその風貌に見覚えがあった。
「あー!!さっきの!」
「正解」
「俺がお前のせいでどんだけ苦しんだと思ってんだ!」
「じゃあさっさと食えよ」
そのパンは見るからに安っぽいただのコッペパンだった。彼はむくれたままコッペパンを一口かじった。
「うまい」
「しっかしお前、盗人に可哀想がられるって可哀想すぎだろ」少年が笑いころげる。
「ひっでえ!しかしうまいな。このパン」
「おやっさんのは特別なんだぜ。……金、返してやるよ」少年は彼の財布を手渡した。
「…お前いつもこんなことやってんのか?」
二人の間に重い空気が流れる。
「仕方ないだろ。どっかのなんちゃらとかいう貴族が職業改革とか言って親父クビになったから」少年は無理にそっけない感じで応えた。
『…それは俺の親父だ…』と、彼は思ったが口にする事ができなかった。
「だから親父とお袋と俺と小さい妹と暮らすにはこうするしかないんだ」
「そっか」家族四人、職も無く路頭に迷う。なにも考えず暮らしていた彼には予想もできない世界だった。
「このご時勢、なかなか仕事は見つかんないんだよ」
彼の脳裏にはとある名案が浮かんだ。
「今使用人が殺されて人がいなくて困ってるんだ。よかったらうちに来ない?」
唖然とする少年。一瞬の後少年は吹き出した。
「あはは、馬鹿だなあお前」
「学歴ナシのお前に言われたくねぇ!」
「ひでぇなぁ。ちゃんと小学校は卒業したぞ。殺されたからってばらしちゃう辺りが馬鹿なんだよ。行く気が失せちゃうじゃんか」
「ごめんごめん、言い過ぎた。そっかお前天才だな」
「へ?ふつうだろ。だから行かないよ。妹に会えないのも寂しいし」
「そっか。残念だ」彼は、自分の妹を想像してみた。彼は六つの妹を溺愛している。たとえ妹のためだとしても会えなくなるのは絶対にいやだな、と彼は思った。
そして家に帰ろうとも思った。お土産にこのコッペパンを妹に持って帰ってやろう。
「なあ、このパンの店、どこだ?」
「おう。あそこだ。連れてってやる」少年は立ち上がって、付いてくるようにいった。
そのパン屋は、こぢんまりとした店だった。中に入ると、パンのいい匂いがとても心を落ち着かせる、暖かい空間だった。カウンターには、眼鏡の優しそうなおばさんがいて、奥にはがたいのいいおじさんがいた。
「いらっしゃいませ」
黒髪の少年に気づいたおじさんがカウンターに出てきた。
「小僧、友達か?」
「今友達になった」少年が楽しそうに『友達』と答えたのを聞いて、少年は嬉しくなった。友達。友達。親の政略じゃなくて、本当の意味での友達。変な気を使わずにすむ、本当の友達。
彼はコッペパン二つをカウンターに乗せ、お会計をした。
「やっぱ俺、邸に戻ることにするよ」
「そうか」少年も、少し寂しそうに見えた。
「いつか」少年が彼の顔を見た。
「いつか俺が親父のあとを継いだら、自分の利益じゃなくて、お前たちの暮らしを楽にするようにがんばるよ。ほら、手を出せ」
「哀れんでもらえなくても結構だ。ばーか」
少年は、笑って手を出した。その手に、彼はありったけのお札と小銭を乗せた。
「いいのかよ。こんなことして」
「うまいパン屋を教えてもらったお礼だよ。俺はまた、小遣い貰えばいいんだし」彼はにっと笑ってこういった。
「そうか。ありがとよ。そうだ。まだお前の名前を聞いてねえよ」
「俺の名前はユーリ。お前は?」
「俺はハル」
「じゃあな、ハル。またいつか」
「じゃあな。ユーリ」
二人は手を振り、彼――ユーリは空っぽの財布を持って夕暮れの町に消えていった。
十年後。泥沼の不況も和らいできたころ、とある若い男が人探しをしていた。
「すいませーん。俺と同じくらいの年齢で、黒髪の男を知りませんか?」
「ごめんなさい。知らないわ」
「そうですか、ありがとうございます」
親切なおばさんと別れた後、男は溜息をついた。
「……なかなか、見つからないなあ。黒髪の青年なんて情報少なすぎるんだよ」
いつかは、大きな人工林を目印にして、なんとか帰ってこられたが、あの時は逃げ回っていたから自分がどこにいるかなんてことは全く分かっていなかった。
「ここはどこだ?もう。またスリに来てくれないかな。そしたら見つかるのに」
「あーあ。路地も大通りも皆同じに見えてくらあ」男は、昔の記憶を頼りに歩いているが、この道を通ったのか通ってないのかさえ定かではない様子だ。
「ん〜〜お?」男は、とあるパン屋で立ち止まった。
「ここ…」こぢんまりとした外観に見覚えがあった。半円のひさし。少しはがれかけたペンキ。
「いらっしゃいませ」いつかと同じ匂いが肺を満たす。なかには、眼鏡をかけたおばさんとがたいのいいおじさんがいた。
「ここだ」
そして、漆黒の綺麗な髪をひとつに束ねた青年がいた。
「あの、俺と同じくらいの、黒髪の男を知りませんか」
「……ハルか」
「ああ!」
「死んだ。」漆黒の少年は無表情に呟く。
空気が凍りつく。立ち尽くす男。
「――ぷっ」
「あっははははは」
「うふふふふ」
「はっはははは」
「ひー腹痛ェ」
「あなたー板が割れるからおかしいからって叩かないでぇ〜〜」
「すまんすまん」
笑い声が途切れた。立ち尽くす男を見て、また爆笑しだす。
「あっははははははははははあっはあはははははは」
「なんなんですか!もう!」
「お前、馬鹿か?」
「なんでお前なんかに?」
「お前、鈍いな。俺だよ。俺がハルだ。久しぶりだな、ユーリ」いつか見た笑顔で漆黒の青年が笑う。
「まじかっ騙すなんてひっでぇ」
「変わってないなーお前」
「そんなことないさ。それよりここで働いてるんだ。良かったな」
「ああ。親父も働き口見つかったし」
「良かった」
「お互い元気そうで何よりだな」「ああ」
ユーリとハルは夕暮れの中いつまでも笑いあった。